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史料紹介

『先祖記』翻刻

凡 例

底本は東北大学付属図書館所蔵本を使用した。
翻刻に際し、漢字は通行字体に改めた。
仮名遣いは原文のままとし、変体仮名は通行字体に改めた。但し之・江・ゑ・ゐはそのままとした。
底本への書込・貼紙は[ ]で括って該当個所へ示した。
JIS第二水準にない文字は☆を入れ、その後に( )で括って読みを示した。
解題と大文字屋研究を『野村美術館研究紀要第9号』に掲載しているので、参照されたい。


帙題簽

黒田侯用達 畑柳平翁旧蔵
大文字屋比喜多氏先祖記 全


帙裏墨書

畑柳平翁旧蔵
先祖記 乾坤 二冊
新町上立売北比貴[ママ]多氏(黒田侯用達大文字屋)
松斎宗積自筆之本、写之比貴多家蔵
裹及、当時古書書名茶器等由来略
可窺之、往年古筆了仲氏借写此本、
経一年余還畑翁。


表紙裏墨書

此書ハ上京新町上立売上ル大文字屋
比喜多氏先祖以来之実録也。同家
松斎、名ハ宗積自筆ノ本ヲ以写之事
藤村庸軒之高弟也。三百年前之事
聞侍等有之、後々考ニモ可成書也。


本文

先祖記 上

[田屋ハ松屋殿ノ用人ニテ西洞院中立売上ル町ニ住ム]

一田屋等意と申すハ、田屋の先祖也。其等意者我等先祖、宗観子の栄甫婿也。等意子の常仙ハ、栄甫子の養清婿也。常仙子の宗節ハ養清子の宗味婿也。大文字屋三代☆(より)田屋三代江之縁組也。
一宗観と申すハ、栄甫親にて、若狭に住けるが、宗観若狭☆(より)伏見へ上り、伏見に少之間居申、それ☆(より)又京都へ来り、上立売入江殿図子東へ入候町北側に、養清迄居申す也。宗味代☆(より)下立売通釜の座と新町との間北側に居る。がんどう打たるは、下立売にての事也。其後、上立売之養清居所は五兵衛[宗味子宗清事]へ譲り、下立売宗味居所ハ権兵衛[宗味子宗種事]へ譲り申候。扨、宗味西洞院下立売上町西側を求め参り候。其後、権兵衛[宗種事]下立売の居所せはく候故、西洞院下立売下ル町西側を求め参り候。宗味居所西洞院下立売上ル町西側は、後に長兵衛[宗味子宗貞事]へ譲り申候。宗玄先祖ハ伏見☆(より)来。
宗味惣領子 御影堂 妙心寺退蔵院
権兵衛 五兵衛 量阿弥 千山 長兵衛 平右衛門 長右衛門 其外娘三人有、宗味子以上十人也。委細具ニ書付有也。
一宗観、上立売に居られ候時分ハ、表に木のたなはなく、只今伏見之道などにあることくに土のたな有之旨也。[惣シテ其比ハ京都に木にて致したるハなく、いづれも土のたな斗也。]
一久佐と云老人あり、わかき時分☆(より)下絵などをかき、大文字屋へ出入す。慶安之年号の初比、八十余歳にて死去。藤村庸軒わかき比、源兵衛と申す時、此久佐、源兵衛に語るハ、我先祖ハ下絵書きにて、宗観へ出入致シ、呉服の下絵なと書ク。宗観妻ハ大名の娘たる故、宗観も結構にあしらハるゝ。宗観茶人故、毎日かこひに釜をしかけ、朝飯後かこひ江入り、かミん[内方事]も被出、茶をまいれと申さるれは、かミん[内方事]わたぼうしをかづきて、かこひ江入らるゝ。其時宗観絵書の名をよび、かこひへ入り、茶をのめ、と申さるれハ、畏り候とて末座に居ル。毎日か様に致シ茶を給らるゝ。此絵書キハ右の久佐祖先也。藤村庸軒、若き時源兵衛と申すか、右之段、久佐が咄たると、後に庸軒物語也。
一宗観ハ初花と云茶入所持にて、茶湯致シ、栄甫・養清三代伝ハり候所、養清代に信長公江上ル也。其節京堺之名物之道具、信長公御所望にて、御物におほくあがり候也。
一信長公天下を御おさめの時、京より安土へ御礼に五人くだる。そのとき養清も参らるゝ。後藤一人、本阿弥一人、上立売笹屋之先祖、今一人ハ失念いたし候。右五人京中惣代に、御よろこびニ安土へ御礼に参りたる旨也。
一天正十二年十一月十九日之朝、養清、茶之湯に天王寺屋宗及・針屋宗和[但シ宗和ト云ハ宗春親也]両人を被呼、虚堂墨蹟をかけられ候。右墨蹟を親の栄甫より養清うけ取、此時ニはしめて被出候也。
一養清不仕合の事にて大損をいたし、にわかに身代不如意に成ルとき、筑前の太守長政公、御ねんごろゆへ養清に仰らるゝハ、此たび大損をいたし、手前不如意成ルよし、虚堂墨蹟か日野肩衝か一色売はらへとの事也。その時養清申しけるハ、御心にかけさせられかたじけなき義に存候へとも、両種ともにはなしかたく奉存、と申すれば、長政公それは無分別なる事かな、たからハ身のさし合せなるまゝ、先ツ此たびははなし、又かさねて、勝手なおりたる時、何にてももとめ、先ツ此度は両種の内一色はなししかるへき、と再三御異見[ママ]なり。養清御返答に、仰そむきがたく候へとも、いかにいたしてもはなしかたく候。虚堂墨蹟をわらやにかけ、せんじ茶をひき、日野肩衝に入れ、これにて一生たのしみ申すが、わたくしの存念なる間、御意にそむき候事御免くださるゝようにと申し上れば、長政公、しからは我何といひてもとかく一色もはなす事ならざる哉、と又御尋あれは、養清、菟角此段ハ御意に候へ共はなしがたき、と申すれば、其時長政公、扨々其方ハ男也。でかすゞゝゝ、いかにも存念之通はなすな、其方身代ハ我が請取ル、と被仰、大きに感心被成たるとの事也。但シ虚堂之墨蹟は、栄甫代に求る、何方☆(より)参りたるも、数代過る故知れず。又ひの肩衝は、日野殿☆(より)養清時代に求ル也。
一日野肩衝を求め度きと養清存れとも、茶入を終に見不申候。其時節は古田織部殿茶湯の宗匠にて、茶湯道具も織部殿能きと申さるゝを、其比世間に用ゆる。夫故、幸、養清ハ利休死去之後にハ織部殿と入魂故、何とぞ織部殿へ肩衝を一目見せ、其上にて肩衝を求メ度と思ひ、或時右之段を織部殿と示合せ置き、扨日野殿江御茶入拝見仕、其上にて申請度キ間、一目御ミせ下さるゝ様にと申上る。其時日を究め、日野殿☆(より)養清方へ肩衝をもたせ御越候。養清茶入をみて、扨使者へ対シ☆(とても)の事にケ様の御道具ハ数寄屋にかざり、拝見致度きと申すれば、使者も尤なる事と申す故、養清勝手へ持入ル、内々織部殿と示合せなるが、折節其日ハ後藤之誰と哉らんの処へ、織部殿茶湯に参らるゝ。然る故、本阿弥、名ハ失念、此人乗[ノリ]物に乗り養清家の裏之町路次☆(より)入り、外路次に[乗物に乗りて]待居らるゝ。養清、肩衝を数寄屋にてハ見ず、其儘外路次に待居る本阿弥へ渡さる。本阿弥乗物之内へ入れ、其儘後藤かたへ行、織部殿へ肩衝を見せ談合被致候。其内に日野殿の使者へハ、養清、振舞を出シ、馳走致る也。扨本阿弥は後藤☆(より)帰り、養清に茶入を渡候て申さるゝハ、織部殿、茶入を朝日にあてゝ迄被見、一段能キ茶入成るまゝ早々求メ可然との事、と本阿弥被申候。然る故、養清、使者江之返事に、御茶入数寄屋にて拝見致、弥申請度キとて、黄金五拾枚にて申請らるゝ。其時節は黄金大切[セツ]にて、今少不足故、京中を尋ぬれ共そろひかね、宇治迄尋、漸才覚致、五拾枚そろへ、日野殿へ渡す也。其時節ハ中々黄金などハ大切成ル由也。
一下立売通西洞院と新町との間の町に、歴々の町人以前はおほく居住致、宗味も北側新町☆(より)二三軒目に居申候。庸軒之親、十二屋宗左・小袖屋宗是・井筒屋宗泉の先祖も、同町に被居候。其時節ハ下立売ノ家共惣ジテ表口四間に五寸程もたらぬ家共也。其家と銀五貫目とを我が子に譲れバ、京中にて長者の様に沙汰を致す。それも銀ばかりにてハなく、呉服の売物何角をこめて、五貫目分渡すが大き成るてがら也。其比是銀を三百目五百目持ても、五六人は緩々と過ギ申す時節之由也。
一宗味下立売通新町と釜の座との間タ、北がわに居る時、関ヶ原陣以後、浪人共二十人斗日暮に押込ミ、宗味は留主にて、宗味妻を人質に取ル。又宗種は二歳之時故、はしの間におち[お乳]いだき、我か身をおゝひて、よぎ引かづきふセり居る。其外客[ママ]来の者共もにぐる。扨がんどうと知ル故、町中其外近辺の者共寄合ヒければ、がんとうの者共も物を少々取リ大形立退キ、たゝ四人残り居る。其時の諸[ママ]司代徳善院にて、家老庄兵衛と申す人、大勢人数をつれ、曽谷又作先祖之家迄被来、尤宗味宅へおし入ルべけれとも、宗味内義を人質に取りたれば、莵角何とぞ盗賊をすかして出すやうにはからへ、と申さるゝ故、盗賊へ人質を出すべきと申時、然らば身ぢかき一類を人質に取り、豊国山まで行キ、其地にて人質をはなして可申旨申候。しかる故、一類の内、誰彼と談合致すれ共、我人質に出べきと申人なき也。其時宗味婿[養清娘也]に菊屋宗五と云人あり。其宗五の親は菊屋宗可と申、七十余ノ老人なり。此宗可申さるゝハ、我年七十にあまり、命惜き事もなきまゝ此度人質に出、盗賊の手へ渡りたらば、定て豊国山辺などにて赦さるべけれ共、此度の事なるまゝ、菟角に人質に我レ出ヅべきといわれ、人質に相究まれとも、盗賊又分別違ひ、菟角人質まても出ス間敷と申するが故、其事も止ミ候也。扨、盗賊ハ宗味妻を人質に取り、やはり居る故、庄兵衛人数をつれ宗味表を打破り押入ル、其時かんどうの者共、最早不叶と思ひ、はしの間に宗種を、おち[お乳]いだき、よぎ引かづきふせリ居るセなかをば、刀[カタナ]を抜、散々に切ども、端の間の天井殊之外ひききゆへ、刀をふりあぐるば、刀のさき天井へつかへ、下へつよくあたらず、其上、よぎと小袖との上を切付る故[ユヘ]、おち[お乳]のせなか二刀三刀手負けれ共、命は無恙、宗種をいだき出、別義なく候。後にせなかに疵おほくミへ申候。此おち、宗玄妻にて、後に心誉喜栄と申すハ、此おち之事也。扨盗賊宗味妻をつれて土蔵之内へ立テ篭ルを、窓より鉄炮にてがんどうを打殺シ、宗味妻は無恙出たるとの事也。後に芳雲妙春と云ハ、此宗味妻の事也。又其時、宗味家来宗栄といふもの、となりより堀を越え、宗味家の内へ入ルべきといへども、盗賊命を捨て、数多居る中へ其方一人とび入るとても何之詮も有まじきとて押とむる也。其比菊屋宗可人質に出べきと申さるゝ事と、家来宗栄、となりより塀を越へ宗味やしきへ入るべきといふ事とを、世間にほむる旨也。今大文字屋了二と云は、此宗栄の孫也。
一宗味若き時は、だいそ(太祖カ)の古宗意うしろ見にて、大名衆の御前へも出る。此宗意は養清家来にて、養清毒[妻]貞吟若キ時、乗物につき供を致したるが、後にハ大分之分限に成り、貞吟方へ見廻候ても、貞吟の詞に長者殿被来たると、たハふれに申さるゝ。扨宗意ハ方々大名衆へ出入を致し、殊之外身を持上ゲ、宗味ハ若き故、後には宗味☆(より)上座に居る。至[或]時筑前太守長政公茶之湯を被成、宗味・宗意今一両人毛茶湯に被為呼時、宗意上座致シ、次に宗味、若き時故居らゝる。扨長政公かこひへ出、是を被見、以之外機嫌損シ、宗意にむかひ、扨々おのれは物をしらぬ者かな、いかに若きとて主人の子たる者を下座に置き、其上[カミ]に居る事沙汰のかぎり成る仕方、急き座を下るべし、無左は打捨るとて、脇指に手を被かけ候[被掛候]。其時宗意も赤面致シ、早々下座へ居なをる。相客も肝をつぶし、何れも驚キ居る。其後長政公仰らるゝハ、か様之物しらずを今より出入無用とて、それより宗意を御よせなき旨也。[猪飼ニ軒ハ此宗意ノ末]
一長政公鞍馬江参詣之時、宗味供を致参る。其時は、宗味も、藤村庸軒親の宗左も、下立売西洞院と新町の間之町に居らるゝ時也。然る故、町の歴々何れも寄合、筑前之太守鞍馬江参詣にて宗味もゆかるゝ。町中馳走に御迎に出可然と申合せ、みぞろが池のきわに畳を数多敷き、幕打廻シ待居る。然る所へ長政公下向にて町中御迎に罷出る旨、町衆、宗味迄申入、其段長政公御聞被成、何れも太儀に出たるとて幕の内にて緩々と御休ミ、大酒にて、殊之外の馳走とて[ニテ]御機嫌よく、御下向之旨也。右之様子を宗左物語にて聞たると、子息庸軒、後に我等に者なし也。
一虚堂墨蹟を去ル御大名☆(より)宗味時代に御所望にて、若シはなし可申歟、然らばあたひはいか程と存る哉、何とそ御もらひ有度との内意を、尋に参りたる処に、宗味返事に、御所望ならは進ずべし、あたひ[價]の義ハ鳥羽より車にかねをつミ、何輌も御越候をば京童部見て、扨々おびたゝしき銀かな、其あたひにては虚堂墨蹟に替ても苦しからぬ事と、何れも申するほど、車何輌にも銀をつミて下さるゝならば可進と申せば、其事止ミたる旨也。
一板倉周防守殿、京都諸司代之時、米殊之外高直に成り、諸人の痛之甚敷故、周防守殿☆(より)京の町人を三人被為呼、相談被成候。其時之三人は[大文字屋]宗味・たいそ宗意、田屋三代目の鷺意☆[常仙弟也]、右三人を被為呼、ケ様に米高値にて諸人の痛ミ甚敷が、何とぞ米下値に成る仕様は有間敷か、存寄あらば可申との事也。宗味[座上衆]承り候。只今何共指当り左様之思案も無御座と申上ケれば、其内何とぞ米下値に成る仕様もあらば重て申参れ、とて三人共に帰候。又藤村庸軒若き時ハ源兵衛と申。田屋等意の婿也。其[ソレ]故ニ 公儀☆(より)等意を被為呼故、如何成る事哉と源兵衛も見舞に参らるれば、右の様子にて被為呼たるとの事にて帰らるゝ。其時、等意の母源兵衛に申さるゝハ、京にて三人ぬき出シ御よび候内、宗意は我が婿、等意ハ我が子也。三人之内へ二人入る事、我が身におゐての外聞不過之、と大きに悦ばれたる、と後に庸軒物語也。
一宗味時代にハ、大名衆何も宗味へ御念比に被成たるが、大名衆宗味に仰らるゝハ、其方子共之内末子を一人両替師に致すべし。いづれも金銀をいらざる時は預ケ置き、万事金銀の肝煎を頼むべき間、一人両替師に致せ、と仰らるれ共、其時分の両替師は、何とやらんいやしきあきなひのやうに被存、それ故に子共を両替師に致さず、末子長右衛門[後之二随易と云]を両替師に致すべきかとの相談もあれ共、是もなられず、井川善六、其時☆(より)そろゝゝと大名方へ金銀も肝煎、両替を致したるが、後に京一番の大分限に成る。長右衛門[後随易と云]なども両替を致したらば、尚以大分限に成るべき物をと、後に長右衛門入道随易咄シ也。
(頭書)
[井川善六ハ衣棚下長者町下ル西側二住ス。加州ヨリ百人扶持身。]
一御上洛之時、阿州公と今一人御大名と御両人一所に宗味方へ御着候。其時分は染物を手前にてこしらへるものを、してどのと申て、女成るが、此してどの大勢ゐて、御大名御両人御着の時に、それにかまわず、してどの小歌を謡ひ、しごとを致居る。其時節は、万事かろゝゝ遊たる成る事にて、ケ様の事もありけるが、今などハ中々御大名一人御着なされても、物音[ヲト]もせぬやうに致すべきに、むかしはゆたか成る事、と阿州公家来猪子喜之助と云老人、後にはなさるゝ。是ハ其節小性にて宗味方江供に被参、右の様子を直に見被聞、後に老人に成て咄シ之旨也。
一御上洛之時、阿州の大守後に天庸公と申すが、御逗留之内宗味方におとまりなされ候。御上洛之時、二条之御城江
行幸にて、諸人堀川にて拝むところに、行幸相済と諸人一同に立ツ故、道々せきあひ、竹屋町丸田[ママ]町などにては、乗物なども打ちくだき、人も怪我を致す。其時、宗種・宗清兄弟何れも子共をつれ拝見に参り、扨帰りに宗清娘ハ幼少之時分故、下男かたくまに乗勢[セ]帰る所に、人におされ何れもに引わかれ、少さきへ参るが、中立売橋の上にて脇之方へ押被出、下男娘をばかたくまに乗せながら、下男の足、橋のそとゆき桁の上へ押出シ居る。今一足を押出さるれば、最早橋☆(より)落る。是を跡より何れもみて、あれゝゝといへども是非なき事にて難義致す時、中立売橋の辻固ハ、藤堂和泉殿の侍衆なるが、此体を見て、あのかたくまに乗り押出されたる娘ハ、身を持たる者之子とミゆるが不便の次第也。あれをたすけよとて、辻固の衆漸々に人をのけて宗清娘ハ無事に帰る。然る故、翌日宗清早々に、和泉殿屋敷へ礼に参るとの事也。
其時又[マタ]宗味下女大き成る袋に、小袖を入れいただきて帰りけるが、是も中立売の橋にて殊の外押れ、袋を取はなし、諸人手玉につき、袋を人のかしらの上へひたとあなたこなたつきゆれ共、中々大勢之人成る故、男共もみる斗にてゑとらず、袋を捨て、何れも宿へ帰る。然る所、阿州公宗味所へはや御帰り、料理の間迄御出被成、何と下々迄怪我もなきかと御尋之時、宗味申上るハ、いずれも無事に罷帰るとて、殊之外押れあぶなき様子、又ハ袋をとられたる様子など御咄申上ゲる。阿州公仰らるゝハ、其袋ハ今に人のかしらの上をあなたこなたと致し有ならば、取につかハせとて、御人をば大勢つかハさるれば、即時に袋を取て帰る旨也。
一御上洛之時、阿州公宗味方に御逗留の内、井伊掃部殿も御出被成、料理の間にて、料理を出す前に鉢[ハチ]になますを入れ、皿とあれば、右の御両人・亭主宗味と三人御慰になますを皿へ御もり被成候。其内之御咄シに、阿州公宗味へ御申候ハ、町人程楽[ラク]成る者ハなし、[主人無之故]行き度き所へハ断りなしに何方へ成りとも行キ、万事心易き思ふまゝなるハ町人也。我も町人に成度と御申あれは、掃部殿御聞、いかにも阿波殿仰之通、町人程自由成る者ハなし。我も町人に成たきが、責而騎馬二百騎もなくてハ、いやと御申候旨也。
一御上洛の時、森古美作殿、宗味方へ御出被成、料理之上にて、桃をまいりたるが、散々腹痛を被成候。美作殿ハ常々殊之外、れちきにて武勇も人に越えたる御方故、さのミ腹痛之気色にも見へざるが、時々顔を御しかめなさるゝ故、側に居る者、御腹痛ハいかゝ御座候哉と尋ぬれば、脇指にて腹をくる共、此上ハ有間敷と仰らるゝ。医者ハ申におよバず、針立、其外唐人なども参り種々療治を致すれ共、よろしからす。大便などに御出被成ても、通ジず、吐瀉も無也。色々と致しても、終に不叶、御死去にて、宗味も迷惑すれ共、是非もなき事也。扨御跡目無之故、定而御知行も断絶たるべきかと、いづれも心元なく思ふ処に、御家中に五百石御取之御一族を御跡目に被仰付、作州十八万石、無恙相続致する也。森内記殿と申するハ、此五百石御取候御一族之事也。
一筑前大守光之公、御公儀御法度に御背キ、大船を御作り被成たるとて、筑前家中衆☆(より)御公儀へ訴人致。其故大き成ル全[ママ]儀に成り、光之公、国元☆(より)江戸へ対決に御下り被成。其時宗味に一宿被遊、宗味に仰らるゝハ、久敷観世新九郎鼓をきかざる間、新九郎鼓を御聞可被成とて、呼に遣シ、囃子一番有ル。扨、翌日宗味夫婦共に御暇乞申上る。其時分、宗味は西洞院下立売上ル西かわに居申、小川の東がわへつきぬけ候御屋敷也。路次口ハ小川につきて有故、光之公御立之時分、小川之路次之外迄、宗味おくり出、光之公馬に乗せらるゝ時、宗味なみだぐミ御暇乞申せば、光之公馬上☆(より)大声にて、頓而対決に勝ツて見せうぞと被仰、江戸へ御下りある。只今の時節ならハ左様などの時は、物毎殊之外御つゝしミ、囃子などハ思ひもよらざる事成るに、其比ハ物毎ゆるやかにて、ケ様之ことをなさるゝとても、御公儀向も苦からぬ時節也。扨江戸において家中の者と、対決に御勝被成、無恙御帰国の旨也。
一宗味初の妻は、久我殿御公頼[ママ][名失念]其御息女也。此惣領之子を権兵衛[後宗種ト号]と云、其妹娘おいと[鎰屋妙栄事]、其弟上立売大文字屋五兵衛[後宗清ト号]、次御影堂量阿弥、末子妙心寺千山和尚、右五人にて年一つ違ひ也。惣領権兵衛[宗種事]七歳の時、母[法名芳雲妙春ト号]ハ死去也。其後の妻ハ石川備前守[法名宗林ト号]妹[法名妙恵ト号]也。其子の惣領を長兵衛[後宗貞ト号]と云、其次平右衛門、其妹娘岸部屋仁兵衛妻也。又其妹[後永春ト号]は松田屋宗節妻也。末子長右衛門[後養節ト云。又後随易ト云]、右五人後腹[バラ]也。先腹と後腹と以上子十人也。
一阿州公の御呉服を、権兵衛御出入致シ相勤ル。筑前之大守の御呉服ハ、上立売五兵衛御出入いたしつとむる。宗味御存生之時より、両人へ相譲り置也。
一大文字屋宗栄と申すは、幼少の時分より養清に奉公をいたしたる者也。宗栄妻は、宗味あね利貞のうばがむすめにて、名をなべと云也。その宗栄孫を平右衛門と申、後に法体名を了二といふ也。又与三郎大文字屋と申も、養清時代の奉公人也。
一千宗旦わかき時、養清之茶湯にあひおほへたるが、殊之外よき茶湯、と後に藤村庸軒へはなしのよし、また庸軒物語也。宗味の茶湯に庸軒若き時、度々逢ヒたるが、是も殊之外、能き茶湯と庸軒咄さるゝ。庸軒の親宗左と宗味と、したしき知音故、庸軒も若き時なれ共、度々茶湯に被参たる由也。
一宗味茶湯は、織部殿の弟子故、殊之外心易く、織部殿宗味方へハ度々茶湯に参らるゝ。来時、路次之内、数寄屋口の道のきわに、木の若ばへ二本見事にはへて有を、宗味みて二枝共に損ぜぬやうに秘蔵致置き、扨織部殿茶湯に来らるゝ時、定而見らるべきが、いかゞ申さるゝ哉、様子を見んと思ひ、かこひの窓よりのぞき居らるゝ。織部殿、其きわを通り、一間程行き過[スギ]て、又みかへりて、しばらく其木をながめ被居けるが、立帰り、木のきわへ寄り、二本の内一本打折、扨かこひへ入らるルゝ。見事成る若め二本ハ過たると思はるゝか、しばらくながめゐて一本打折れたる旨也。
一宗味西洞院之家の路次を致さるゝ時、十二屋宗左、其外知音一両人つれ立、路次へ見廻に参らるゝ。折節大名方より借銀相済二十貫目箱に入れ、持参るを見舞之衆みて帰られ、其後人に逢ヒ、いづれも申さるゝハ、宗味はいか程路次をおびたゝしく致されても苦しからぬ事也。此比見廻へば、銀子二十貫目大名方☆(より)相済かへる。あのやうなる長者は何事をめされても苦しからぬ事と、風聞致さるゝ。其比は銀子大切にて、二十貫目と申すはおびたゝしき事と世間に思ふ時節也。但シ宗味路次ハ京中に無之程、能キ路次の旨、後に藤村庸軒咄し也。
一宗味家来に八兵衛と申者有。宗味後之妻の惣領之子を長兵衛[後宗貞ト号]と云。此長兵衛右の八兵衛に不届故、殊之外八兵衛恨ミに思ひ候。其子細ハ、長兵衛[宗貞事]我か母と両人示合せ、八兵衛をあしさまに宗味に申かくる。
宗味聞、八兵衛を追出シ、其上に京の奉公をかまひ申さるゝ故、八兵衛江戸へ下り、しばらく居て、又京へ立帰り、さて青蓮院御門主に御奉公を勤め居る。尤八兵衛ハ学文も有リ、手なども能事也。然る処に、又々宗味方☆(より)かまひ申さるゝ故、八兵衛十分宗味夫婦を恨ミに存、最早京之住居もならざる故、是非に及バずと思ひつめ、宗味夫婦を打殺すべきト覚悟をきハめ、宗味所西洞院下立売上ル町の家へ、朝飯後ニ行き、おいへを見廻せ共、宗味夫婦はミへぬ故、奥江通りみれ共、両人共に居られず。台所にハ手代三人居たるが、是を見て、あれは八兵衛にてはなきか、何たる事に来り、奥へ入ルそ、是は以之外成る事と、手代三人共につゞゐて奥へ行。八兵衛ハ奥之間を尋ねれ共、宗味夫婦ハミへず。跡☆(より)家来三人追て来る故、八兵衛ハ土蔵へ入り戸を指す。手代三人之内一人長刀のさやをはづし、八兵衛土蔵へ入り戸を指す処へ長刀のきつさきをば二三寸押こみ、是が関に成て戸、皆迄さゝれぬ故、戸のくろゝ落ず候。彼長刀は菊一文字の作故、戸にはさまれて疵付き可申かと、長刀を持たる者、長刀を前へ引とらんとす。八兵衛は又何とぞくろゝを落さんとて、戸をつよく押ス故、長刀引取にくきを、漸々と前へ引取ル。夫故戸、とくとさゝれ、其儘くろゝ落る。八兵衛はこがひの者故、土蔵之勝手もよく覚へ、頓而銀箱を取出シ、戸じりに積ミ、大釘を用意して其釘にて蔵之戸に打つけ、あかざる様に致シ、扨思ひ切ツたる事なれば、卒爾に戸など明ルならば、道具なども引やぶり、打くだき可申と言ゆへ、最早戸もやぶられず、何れも寄合、談合す。宗味は座敷のさきに木の枝を打居らるゝ。妻ハ持病発り奥の間の暗き所に臥て居られたる故、八兵衛が両人共に見つけざるが、両人共に運のつよき故也。彼菊一文字之長刀を前へ引とらずに、やはり押こみ居れば、くろゝ落ざる故、八兵衛も戸を押て居るにより、外之はたらきもならず、其間に何れも寄合、戸を押あくるか、打やぶるか致すれば、八兵衛も何のはたらく間もなきに、長刀を前へ引取る故、戸のくろゝも落、扨八兵衛も釘を打つけ、銀箱も積ミ、要害致したる故、大事に成る。長刀を持たる者の不覚哉と其時分之風聞也。扨諸司代板倉周防守殿へ、此様子を申上る也。宗味初之妻の末子を千山と申するが、周防守殿方へ度々被参、右の段々を直ニ上る。周防守殿仰らるゝハ、土蔵之内には名物之道具もあり、其上大名衆之道具も質物に預り、土蔵に有る故、若シ損ずればいかが也。菟角、何とそ才覚を致シ、八兵衛を土蔵☆(より)外へ出すべし。御公儀☆(より)人参り戸を打やふりなば、八兵衛最早かなハずと思ひ、若シ道具の滅する事も可有まゝ、菟角八兵衛を何とぞすかし出せ、との事也。其時分阿州の大守、後ニ天庸公と申が伏見へ御着、此様子を被為聞、扨々町人ハもどかしき者かな、人数をつかハし土蔵を打やぶれ、と仰らるゝ。其時御家老蜂須賀山城申さるゝハ、京にハ万事諸司代の支配にて、外☆(より)下知は成がたき旨申上らるれば、阿州公被為聞、然らば是非もなき事と、其事も止ム也。扨八兵衛ハ中一日とやらん二日とやらん、土蔵の内に居る也。其内権兵衛[後宗種ト号]ハ、八兵衛宗味方に奉公を勤め居る内も、情けらしきゆへ、八兵衛土蔵之内にて云やうハ、権兵衛[宗種事]様に御目ニ懸り度く候。必御用心なと御無用なり。前廉御奉公之内、御情ふかき事ハ只今にいたり忘れざる故、御目にかゝり御礼をも最後に申度き間、必御身の御用心被成間敷キと云故、是を便りに何とそ異見を致シ、土蔵☆(より)外へ出すべきと思ひ、蔵之窓より権兵衛[宗種事]のぞき、八兵衛と詞をかけらるゝを、八兵衛窓のきわへ出、前廉[マエカド]之御礼を申さんため、今朝御宿へ参りたる所に、御斎日故、出家衆之乗物もあり、其外、供大勢相ミゆる故、立帰り、すくに☆(ここ)許江参り、か様に土蔵ヘ取こもると云。権兵衛申さるゝハ、先々食事もあるまじきが、それへつかハすべきか、といわるれば、土蔵之内に菓子もあり、折節餅も多く有故、食物も下さるゝに及バすといひて、又火打にて火を打、たばこを取出シのむ故、何れもきもをつぶし、火の用心を致せとて、殊之外さハぐ。千山も度々周防守殿へまいらるゝ故、右之様子も申上れば、随分火之用心を能ク致シ、菟角何とそ土蔵☆(より)出ルやうに才覚肝要、との仰故、権兵衛[宗種事]は度々窓☆(より)八兵衛に逢ひ、出る様にと申さるゝ。余人にハ中々八兵衛用心を致、逢ひ不申候。扨権兵衛[宗種事]に向ひ八兵衛申するハ、日野肩衝は貴様へ参る物ゆへ少も疵付ケまし。虚堂墨蹟ハ長兵衛[宗貞事]どのへ参る物なれば、引やぶるべきと云。又学文の師匠方へ詩を作りて是を御届被下とて、権兵衛[宗種事]に渡す。ケ様にて度々権兵衛[宗種事]ハ逢ハるゝ。扨隣町迄火之用心を致す故、殊之外さハぐ也。又八兵衛に母親有リ。是をよび土蔵之口に付ケ置き、八兵衛安堵致す様に母も戸越に、八兵衛と言葉を度々かハする。権兵衛[宗種事]も度々八兵衛に異見を加へ、其上八兵衛母親も能ク合点致シ、八兵衛に異見を云故、夜に入り、八兵衛蔵より出る筈に相究り、何れも悦び居る時、八兵衛母親用事有リ、表へ出たるが、下☆(より)侍衆☆を持せて来らるゝを、母親みて御公儀の衆と思ひ、其儘内へかけこみ、土蔵之きわへ行き、八兵衛とよびかけ、只今御公儀☆(より)其方を取りに来るまゝ覚悟を致せと申すれば、八兵衛心得たりと返答をする。是を何れも聞、母親へ言様は、扨々卒爾成る事か、あれは御公儀の衆にてハなし、何たる卒爾成る事を申す、といへ共、母親も合点致さず、八兵衛江も色々といへ共、返事もなく、それ☆(より)八兵衛と名を呼かけても終に一言の返事も致さず。其夜、聞耳を立れ共何の音もなきが、夜更てしづくのぼちゝゝと落る音聞ゆる。其夜は何れ談合にて、とやかくと夜をあかし、明ル朝八兵衛をよべ共、弥返答もなく、何の音も聞えぬにより、気遣を致シ、下男窓☆(より)そとのぞけ共、何の別義もなき故、はしごをさし、二階之窓よりそとのぞけば、八兵衛切腹致シ、相果居る。其様子を聞、何れも土蔵の戸を打破り、二階江あがりミれば、八兵衛腰をかけて腹を切リ、扨わたをつかミ出シ前の壁へ打つけ、相果居る。前夜にしづくの落る音、蔵の外江聞へたるハ、腹を切りたる血、二階より下の板敷へおつる音也。さて大名衆の質物の道具も別義なく、尤日野肩衝も、権兵衛[宗種事]様へ参る物なれは、疵つけ間舗といひたるにたがハず、少も疵つけず、又虚堂墨蹟ハ長兵衛[宗貞事]殿へ参る物故、是ハやぶるべきといひたるが、其ことばのごとく引やぶる。其比長兵衛[宗貞事]は江戸に居らるゝ故、無事に候也。此節家来之者寄合申するは、虚堂墨蹟ハ八兵衛やぶりたれども、日野肩衝ハ権兵衛[宗種事]様之道具とて別義なく、せめて此上のよき事と申すれは、下男一人いふやう、八兵衛は随分知恵もある物なるが、日野肩衝を残シ置ク事誤り也。これも打割たるが後々のために宜敷物を、と申すれば、いずれも聞て、おかしくおもひ、これは格別の申分、子細はいかにと尋ぬれば、かの下男言やう、日野肩衝を権兵衛[宗種事]様へ参る物とて残ス心ならば、長兵衛様へ参る虚堂墨蹟もやぶらぬが宜キ也。又虚堂墨蹟をやふるならは、日野肩衝もともに打割りたるが宜き也、子細は二色共に無事ならば、御約束の通、後々茶入ハ権兵衛[宗種事]様へ参るべし。長兵衛[宗貞事]様へ参る墨蹟をやふる上ハ、宗味様御果の以後、まゝ母ご、俄に引かへ無事成る茶入を長兵衛[宗貞事]様へつかハさるべし。しかれば却而長兵衛[宗貞]様へハ無事成ル茶入参りて、権兵衛様へハやふれたる墨蹟か又は、二色共に長兵衛[宗貞事]様へ参るべきは、後々御兄弟の申分出来、散々の事にな成べし。これはさしもの八兵衛なるが、後々の事、こゝろへそこなひ、墨蹟はやふり、茶入は無事に置ク段、大きなる誤りと申すれば、いづれも後々の事ハ此上にもさとらて、扨々替りたる思案と笑ひたる旨。さて後々案のことく宗味相果ル剋、継母、墨蹟も茶入も長兵衛[宗貞事]へ譲り、権兵衛[宗種事]方へは茶入をつかハさす、宗味遺言にそむき、大事出来、先腹と後腹と不通になる。其故かの下男のいひたる事を家来之者共いづれも申出し、其節は何事を申すそとおもひしが、今ひしと思ひあたりたる、と下人のことばを感ル也。さて右之虚堂墨蹟やぶれたるを、表具師宗由つぎ申候。表具ハ周防守殿より遠州へ御申つかハしなされ、遠州表具をいたされ、周防守殿へまいり、周防守殿より宗味へ御渡しある也。其時、周防守殿御申なさるゝは、虚堂墨蹟やふれたるにて、いよゝゝ名物になりたる、との被仰渡也。但シ宗味は遠州へもこころやすく参り候へとも、周防守、殿墨蹟に威をつけ申すべきため、周防守殿より遠州へ右の通表具を御たのミ候也。さて御大名方へ御取替申候借状も引さくゆへ、此旨周防守殿へ申上れは、周防守殿仰らるゝは、八兵衛気ちかひて借状をやぶりたる旨、大名衆方へ宗味方より申上べし、さためて別義はあるまじ、若シ何とぞ相違もあるならば、此方より右之通大名衆へ申つかハすべき間、さやうにこゝろへ、との被仰付也。しかるゆへ方々御大名方へ右之段申上れば、いずれも御借状を御書改被成、相違なく宗味へくたさるゝ也。その文に、八兵衛と申者、気違ひて借状をやぶる故、ケ様に書改ると借状の文言に有り。其内、薩摩之太守御借状、後迄残り、我も其文言をミる也。右之咄也。千山和尚、宗種おちの夫に仁兵衛[後宗玄ト云]と被申者、又宗味古キ奉公人に、大兵衛と申者と、此三人ニ右之通、委細物語承り候也。
一虚堂墨蹟、日野肩衝は先祖☆(より)惣領への譲り故、宗味も此二色は内々権兵衛[宗種事]へ譲るべき旨申さるゝ。然れ共後妻我が子の惣領之長兵衛[宗貞事]に何とそ渡シ度おもひ、宗味へよりゝゝいわるゝハ、権兵衛[宗種事]ハ惣領たりといへ共、子なければ、後々他人之手へ渡るべきも無覚束事なれば、菟角大文字屋之外へ参らさる様に致されよ、と常々あしさまに申さるゝ。又宗味は権兵衛[宗種事]を惣領故、殊之外大せつに致さるゝ。然れ共後妻よりゝゝ、ひたと右の通をすゝめらるゝ故、宗味も誠に権兵衛[宗種事]に子とてもなけれは、後々の事も知れさるとて、少まよひ出、然らば、日野肩衝は権兵衛[宗種事]へ譲り、虚堂墨蹟ハ後妻の惣領長兵衛[宗貞事]に譲るべきと、きハめらるゝ。権兵衛[宗種事]おちの夫、仁兵衛[宗玄ト云]此旨を聞て、ケ様に後妻色々といわるれば、又宗味死去之後、いか成る変出来たらんも、心元なく思ひ、宗味へ申するは、御存生之内に日野肩衝を権兵衛方へ御渡シあれと、度々仁兵衛[宗玄事]申候、宗味気遣致すな、ひのかたつきハ無相違、後々権兵衛[宗種事]江渡するとの事にて、いまた渡されぬ也。仁兵衛[宗玄事]菟角継母継子之間は宜しからぬものと、宗味へ思ハせんとの謀に、宗味を我が家へ招寄せ、振廻の上にて、せつぎやう語を呼び、あいごの若を語らせ、継母・継子の間のあしきと言事の、せつきやうをきかれ、宗味も哀を催シ、涙をこほさるゝ。ケ様之事など、仁兵衛[宗玄事]致す段、是誠之忠臣也。其後宗味相果る以後、権兵衛[宗種事]方へ玉室の掛物を越シ、日野肩衝を渡さす、金銀とても少シならでハ渡さす。然る故、先腹五人殊之外立腹致シ、先ツ宗味ゆつり状をみて、其上にていかやうともゆつり状のことくにいたさんいへども、後妻ゆつり状を何角と申、つゐに出さぬゆへ、御公儀へ出る筈の処に、知音の歴々大勢、権兵衛[宗種事]かたへ毎日相つめ、とかくかんにんあるへし。長兵衛[宗貞事]たとへ日野肩衝にて茶之湯をいたすとも、いつれも参るまじき間、とかく此たび之義、かんにんあるべきとて事相済、日野肩衝、虚堂墨蹟、二色ともに長兵衛[宗貞事]かたへ取るゆへ、先腹五人と後腹五人との兄弟、不通になる也。然る故長兵衛[宗貞事]は弟なれども名物の道具、其上金銀おほく取るゆへ、ことの外成富貴の体にて、大文字屋一家の惣領のやうニ相見へ、先腹の兄はさもなきゆへ、権兵衛[宗種事]、五兵衛[宗清事]、誠以無心の次第也。又宗味、祠堂に石室善玖之墨蹟を妙心寺退蔵院千山へ渡せとの宗味書物もあれとも、これも後妻渡さぬ也。さて長兵衛[宗貞事]同腹の弟江のゆつりの金銀も、よきところの借状は、ことゝゝく我が方へ取り、あしき借状の分を弟両人へわたす故、同腹たりといへども又申分出来、それゆへのちゝゝまで同腹の兄弟不通にてハなけれども挨拶よろしからず。其内末子長右衛門[後随易と云]は宗味茶之湯をいたさるゝ時ハ勝手に居て、万事茶之湯事をつとむる。そのうへ後妻長兵衛[宗貞事]につゝいてハ、また末子長右衛門[随易事]愛せらるゝ。しかるゆへ一休朱太刀墨蹟、馮海粟墨蹟、かの人といふ利休竹筒三色をば、長右衛門[随易事]へ渡さるゝ。それゆへ長兵衛[宗貞事]と挨拶よろしからず、或[アル]時かの人の筒を長兵衛[宗貞事]借り、其後、終[ツイ]に、長右衛門[随易事]かたへ返さぬゆへ、なをゝゝあいさつよろしかぬ也。長兵衛法体の後、名を宗貞といふ。我か子に長兵衛と名をゆづらるゝ。後の長兵衛いよゝゝ万事不届ゆへ、長右衛門[随易事]とまた不通になる。宗貞弟の平右衛門も死去の後は、子を又平右衛門と云。長右衛門[随易事]・後の平右衛門、両人共ニ後の長兵衛と不通になる事を、千山和尚あまり笑止におもひ、いつれも一門中とのこらず不通になる段、外聞よろしからすとて、長右衛門入道随易と平右衛門と両人へいろゝゝと申て、後の長兵衛[後宗温ト号]とあいさつなをる。しかれとも表むきばかりにて、内證ハ殊之外宜シからぬ也。此長右衛門[随易事]ハ権兵衛入道宗種とハ別腹たりといへども、前廉☆(より)殊之外かわいがらるゝゆへ、おもてむきハ別腹故不通なれども、内證はその恩をわすれぬと、かげにても申さるゝ。法体の後随易と申す時分、宗種次男作左衛門[後宗積ト号]手ならひの師匠に、岡尾正恵とてあり。この随易も正恵之手跡の弟子なり。しかるゆへ随易も作左衛門[宗積事]も両人ながら正恵ところへこゝろやすくまいりたるが、或時正恵ところにて両人出合、正恵あいさつをもつて、はしめてあふ。その時随易申さるゝハ、今まては不通なれとも、其方親父宗種の恩、今にわすれぬと申さるゝ。其後妙心寺またハ正恵ところにても、たひゝゝ随易と作左衛門と逢フ。この随易に子はなく、あとを手代にゆづる覚悟ゆへ、つねゝゝ存らるゝハ、親宗味道具と人のしりたる一休朱太刀墨蹟、馮海粟墨蹟、手代にゆつりても本意にあらず、そのうへ若シ手代売はらひなといたし、宗味所持のものとて、いづかたへ取わたしいたすもしれぬ事なり。其時は先祖のちじよくなれば、一家之内もちつたへべきかたへゆづりたきとて、後に一休朱太刀墨蹟は宗種之惣領権兵衛[後宗祐ト号]かたへきたる。馮海粟墨蹟は次男作左衛門[後宗積ト号]かたへきたる。右の一休朱太刀墨蹟ハ、宗味時代に求メらるゝ。馮海粟墨蹟ハ宗味後妻の道具也。太閤之時分、六万石取の大名[名失念]へ石川備前守いもと[但シ宗味後妻也]犬山之城より婚姻有。しかるところに子もなく、右之大名相果られ、知行断絶す。それゆへ備前守いもと[宗味後妻事也]ハ兄備前守、犬山之城へかへらるゝ。馮海粟墨蹟は、その六万石取の大名之所持之墨蹟なりとて、その後宗味かたへ妻にまいられ、右之馮海粟墨蹟をば長右衛門[随易事]へゆづらるゝ也。
[先祖記乾終]


[先祖記坤]

(表紙墨書)
[先祖記 坤]

先祖記下

一宗種初之妻は石川備前守入道宗林之娘也[後守皎ト号]。其妹大文字屋五兵衛妻。又其次大森五郎兵衛妻也。此大森五郎兵衛と申すは、大森三郎兵衛先祖也。右三人之むすめの内、宗種妻は、宗林ことのほか愛子にて、金銀もおほくゆづらるゝ。子二人あり。惣領は男子なるが、産後六日目に死去。栄宝幻寿ト号。そのいもとむすめ、これも三歳にて死去。智商ト号。二人の子におくれ、そのゝち守皎も死去也。守皎は宗味後妻のためには姪[メイ]也。しかれども宗味之後妻、我か子共は愛し、先腹の子はそねミ申さるゝ。守皎ハ宗味妻たるにより、姪[メイ]といひ、嫁と云々。旁以したしき筈なれ共、宗種ハ先腹之子成りゆへに、おばめいの間タ、互ひに宜しからぬ旨也。
一宗種を若き時、権兵衛と申て、十八歳にて初而阿波へ被下たるが、大守蓬庵公代々御なじみ故、殊之外御懇にて御馳走なさるゝ。或時振廻之上にて、大酒に成り、蓬庵公仰らるゝハ、権兵衛に小歌を一つうたへと御所望也。其時権兵衛承、小歌をうたへば、蓬庵公殊之外御機嫌にて、扨々能クうたひ、我も嬉敷也。子細は其方に小歌を所望致して後、我思ふハ、是ハ卒爾成る事を与風所望したる事かな。若シ小歌をうたハざれば、京の若き者に恥辱をあたふる様に成、我か大き成る誤りと思ひ、心之内に殊之外小歌所望したるを悔敷難儀に思ふ処に、其方早速小歌をうたふ故、我も此難をのがれ、扨々嬉敷キ事かなと、御機嫌にて、二王ノ脇指をば褒美に下さるゝ。扨帰りにハ御秘蔵の関船にて御おくらせ候。古人はかくのことくやさしき御心指に候也。
一宗種を権兵衛と云時、子もなく、病者成ル故、阿州之御呉服を御願申上る。其時分ハ天庸公之御代にて、天庸公仰らるゝハ、其方病者故、呉服を余仁へ申付る様にとの事尤なれ共、数代出入致シ勤る間、五節供の祝之呉服斗成共致すべし。数代之吉例たるとの被仰渡なれども、其段も御ゆるし下さるゝ様にと、達而御呉服之義御願申上れば、天庸公、是程に頼む上に、少も呉服致いやと申す段不届ケ成る事、と殊之外御立腹にて、然る上ハ是非もなき事、以後出入無用、と御気に違フ。然る故☆を御念比に御出入致す御家へ、か様に御気に違ひたる段、外聞も宜しからぬと、権兵衛迷惑を致す。是ハ段々天庸公之御道理至極也。吉例たるまゝ御召之呉服斗、少成共致す様にと迄仰らるゝに、それもいやと申す故、御立腹は御尤成る事候☆(より)、其故早々御侘言を申上れ共、御機嫌なをらざる故、権兵衛おちの夫仁兵衛[宗玄ト云]阿州江下り、数代御念比の段々、御仕置衆江申入、むかしの事共いひたき事斗をのこらず申立たれは、仕置衆も被聞、此度は不調法成る事なれ共、先祖☆(より)御出入之事申立る段、余儀なく尤也とて、天庸公之御耳江達シ、御機嫌なをり、然らは御召呉服斗、少ツヽ致せとて、それより又昔のことく御念比に御出入を致する也。其後阿州ノ侍衆のぼられても、仁兵衛[宗玄事]事を尋ね、扨々いひたき事ばかりを申たる人と、いづれも後に咄被致候也。
一宗味姉は、桔梗屋宗利之内儀[後利貞ト云]也。此利貞おちの子、名をなべといふて、宗栄女房也。宗栄ハ牢人の子にて、坂本☆(より)来り、養清に幼少より奉公致候。其孫大文字屋了二也。
(頭書)
[☆☆]
一大文字屋家来宗栄、大文字ノのれんは養清にもらひ候。養清申さるゝハ、いかにも大文字ノのれんをかけさすべけれども、家来の事なるまゝ桝ノのれんに大文字を書き候へと申渡し、それより宗栄のれんハ桝に大文字を書キ、かける也。養清のれんハ、白地に墨にて大文字をかく也。
桔梗屋素軒先祖は、松永弾正之家来なるが、様子ありて牢人いたし、淀に居住し、名をば昌雲とつキ(つけカ)、さて京都へのぼり、曽谷宗喝之先祖と知音ゆへ、其方の一門分になり、桔梗ののれんをかけたきとのそまれ、それより桔梗ののれんをばかけて、桔梗屋と家名をいふ。その時節までは京都歴々の者ののれんをことわりなしにかくる事、なりがたき事にて、それゆへ右之通に致され、桔梗ののれんをかけらるゝ由、後に此事、桔梗屋素軒物語也。
一桔梗屋素軒之先祖ハ、宗利[松雲其子]と申、下立売に被居候。其時分ハ下立売歴々之町人いつれも呉服屋にて、内方自身に表の木がうしの内にて呉服商ひを致さるゝ也。宗利内儀大文字屋宗味姉にて、後に名を利貞と云。これも自身に呉服商ひを致さるゝ所ニ、加藤肥後守清政(ママ)公いまた小身の時分、時々自身に御成、商い物御求、利貞と心易きゆへ、常々清政公御申あるハ、我若シ大身に成たらは、以後其方へ用事頼むべき、と被申なり。然る処に西国へ俄に陣立ある故、用銀のため銭二三十貫ほと借り度旨御申、併討死致たらば、此銭返弁致す事成る間敷也。又無事に帰りたらば、急度返済申すべきか。若シ借シ可申哉と利貞へ御憑あれは、利貞成ほど御用に立申へきとて、銭を取替申也。さて清政公後に御申候ハ、我難儀の時分、銭を取替申候時、若シ討死致シたらば、返弁成間敷と申すに、頼もしく早々銭を借候段、心底忘れかたきまゝ、以後迄用事頼むべきと仰らるゝ。扨次第に大身に御成、後には肥後之国司に御成ニ而、則桔梗屋宗利、呉服所にならるゝ也。
一桔梗屋宗和[宗利之子]之代に、丸壷を求らるゝ。其時分の町人、いつれも茶湯道具何にても名物一種宛持申さねは、其体悪きゆへ、いづれも名物を一種二種宛、随分求むる。曽谷宗喝[カツ]と宗和とハ従弟[イトコ]也。宗喝も金七十枚にて文琳を求メらるゝ故歟、宗和も何にても名物を一種求度と存居らるれ共、其時分売道具もなき処ニ、土[ド]田宗也と云茶湯者、丸壷を持居申候。此丸壷ハ細川三才(ママ)候☆(より)様子有之。土田拝領致シ、土田方にてハ名をさつま丸壷と云。土田子孫なきゆへ、右之丸壷を望ミの方あらばつかハし、其代銀をわけて親類家来へとらせ申すべきとの噂を宗和聞出シ、早速土田方へ茶湯に行、其上にて彼丸壷を所望致、帰らるゝ。扨代之義ハ挨拶人有テ、金三百枚つかハし、然るへきとの相談にて金三百枚に○[宗和]求らるゝ。
(貼紙墨書)
[☆☆]
然れ共金子不足故、金五十枚のかハりに、宗和所持の唐物尻ふくらの茶入を渡シ、残金二百五十枚渡さるゝ筈なれども、其内へまだ三十貫目不足にて、気の毒に思ハるゝ処に、後藤誰とやらん、其様子を被聞、宗和丸壷を求らるゝ段、扨々きどく成る心底、銀子三十貫目不足ハ我取替申すべきとて、銀三十貫目後藤☆(より)桔梗屋宗和へ借るゝ。其故金二百五十枚と唐物尻ふくらの茶入と渡シ、丸壷宗和手に入申す也。然る処に加藤肥後守殿、伏見御屋敷の留守居[名失念]、右之様子を聞、早々伏見☆(より)宗和方へ来り、此比其方丸壷を求らるゝ由、きどくなる心底、手柄[ガラ]也。我旦那迄外聞宜敷候。さて銀子ハいかがされたる哉、と尋ねらるゝゆへ、右之段委細咄さるれば、其後藤☆(より)銀子借り申す段、旦那と其方も外聞宜しからず、幸伏見旦那蔵に銀子あり。三十貫目上せ申すべき間、早々後藤☆(より)借り候銀子返弁致され然るべし。旦那の三十貫目之銀は、呉服代にて指引致すべし。尤利銀などハ入申さぬとて、銀三十貫目伏見☆(より)早々被上、其銀を身後藤方へ済シ候也。其後古田織部殿、宗和方へ茶湯に御出、向後右之丸壷の名を土田丸壷と申す様にと御改メ被成候旨、後に素軒物語也。但シ宗和方☆(より)土田方へ金五十枚のかハりにつかハし候唐物尻ふくらの茶入は、後に片桐石見守殿土田江御所望被成、御取候旨、是も素軒咄也。
一織部殿☆(より)黒ぬり盆を土田へ給り、右之丸壷を此盆に乗せ、茶湯を致然るへきと御申、土田茶湯の時刻、其盆に丸壷を乗て茶湯を致たる旨也。
一若狭盆ハ宗和子息宗与代に求らるゝ也。井筒屋宗仙[泉]にも若狭盆所持故、宗与盆を宗仙[泉]方へ持行キ、くらべ申さるれば、少も違ひなき也。さて帰らるゝ時、我盆は是にて候まゝ持帰ると申さるれば、宗仙[泉]二枚共に違ひなきまゝ、どれ成とも取りて帰られよ、おなじ事と申され互[タガヒ]に笑ふて帰らるゝ。代ハ判金十二枚斗之旨、扨追付宗与・宗仙[泉]一所に○[去ル方へ]客にゆかるゝ時、宗仙[泉]申さるゝハ、我盆を去方☆(より)金十五枚にもらひに参りたれ共、つかハさぬが其方の盆は利も少有ルまゝ、十五枚にはなきるへき哉、と尋ねられば、宗与申さるゝハ、我も丸壷を乗へきため盆を求たる故、はなし申す事いやと申され候旨、後に素軒咄也。[但シ素軒と云ハ宗和孫也]
一昔は京の歴々の町人、いづれも二十四五にて法体をいたす旨、宗和・宗カツなとも二十四五にて法体を致さるゝ旨。是ハ茶湯之時法体にて候へハ、大名衆など用ひ宜しき故、いづれもはやく法体を致たるとの事也。
一桔梗屋松雲・其子宗利・宗和・宗与・素軒、右五代也。此二代目之宗利ハ、大文字屋宗味姉婿也。三代目之宗和は、上立売笹屋☆(より)入婿に宗利方へ被来候也。
一桔梗屋六右衛門ハ桔梗屋宗和之家来にて、加賀へ名代に度々くだり、後に宗和、加賀の呉服を六右衛門へゆつられ、今に致され候也。
一三宅宗和ハ鎰屋常栄の姉婿也。其産[ウミ]の娘、桔梗屋宗与後妻にて、桔梗屋素軒のためにハ継母也。又宗与内義の妹は、名をおまんといひて、冨士屋紹味の内義也。さて鎰屋常栄姉は右二人の娘を産[ウミ]死去也。其後冨士屋紹味姉を三宅宗知後妻に被呼、宗勢・宗舟・おすて三人を被産候。おすてハ大文字や平兵衛内義也[後法名正雲ト云]。然る故冨士屋紹味は、宗知之ためにハこじうと也。其上宗知二番目之娘おまんを、紹味妻に致さるゝ故、又婿にてもある也。
一関東陣之時節大文字屋宗意[たいそ]門の戸をは初夜時分にたゝく故、誰[タソ]ととへば、去方☆(より)大分銀子を預ケに来る間、はやく戸を明ケられよと云。扨戸をあくれば、同心とおぼしき人数多入り、銀子五十箱台所につミたて、扨宗意にいふやうは、其方へ此銀子を五百貫目預ヶおくまゝ、能ク請取らるゝべし。追付使者参り様子可申入と云。其とき宗意、是ハとなた様☆(より)御預ヶ候ぞ、先ツ様子承度キといへば、彼同心之者共、頓而使者参り、委細之事ハ其方へ可申入まゝ、先ツ何れもは帰るとて、銀子五十箱台所につミおき、其へハ(☆)皆々帰る也。扨宗意ハ使者追付可参と相待居る処に、四ツ時になり夜半になれ共、使者も来らず。其夜も明れ共使者ミへさる故、宗意殊之外不思義におもひ居る。翌日も若シ使者来るかと待居れ共、終に使者来らさる故、宗意殊之外迷惑に思ひ、此義を諸司代伊賀守殿江断申さす、後日に公儀へ知るゝならば、我大難にあふへし。又伊賀守殿へ断上に、若シ預ヶの使者参り、諸司代へ断ル旨聞たらば、御大名☆(より)いかゞ御たゝり可有哉。菟角いつれの道にても大難のかれがたきと、大きに迷惑を致。二三日は此事を病ひにして昼夜共に色々と思案を致すれ共、菟角何とも致がたき故、黒田長政公常々御懇故、これへ御相談可仕と思ひ、右之様子長政公へ申上。此大何いかゞ可仕哉と申すれば、長政公、是ハ我のいふことくに致すならば、其方が難も有間敷と御申候。宗意何とぞ大難のがれる様に御指図に預るべき、と申すれば、長政公、しからば五百貫目之銀子を半分此方へくれよ、残り半分ハ其方か物にせよ。後日に諸司代☆(より)其方いか様之御たたりにあふとても、我、伊賀守殿へ其方難なきやうに断りを申スべし。又ハ江戸☆(より)之御とがめにあふ共、我其段も申ひらき、其方別儀有間敷まゝ、菟角思案次第、と御申故、宗意、是ハ忝き御意かな、半分あげ候ても我手前に二百五十貫目残り候。其上後日に難にあハざるやうに被遊下さるべきとの御談合、有難きとて、二百五十貫目長政公へ遣シ、宗意も残ル二百五十貫目を取り、長政公御談合にて、案堵致シ、よろこび居候。其節ハ戦国故、大名も殊之外銀子入用にて、長政公もヶ様に御申との事也。其後終に使者も参らず、何の沙汰もなく、又公儀へも聞ゑざるか、何之御とかめもなく相済、其二百五十貫目之銀にて、宗意後々に分限に成る也。扨右之銀子之子細を其比皆之推量致するハ、治部少方の大名、右之銀子を山野にすておかんよりハ、宗意へ預けおき、今度勝軍ならば、宗意りちぎ者なるまゝ、右之銀子を後に取返すべし。又負軍にて打死ならば、山野に捨るよりハ人にとらせたるがまし成ルとの料簡にて、宗意方へ右之銀子を預ヶおかるれ共、まけ軍にてはや打死たる故、最早使者も参らず、其通に成たるか、との世間の推量也。其大名の名は誰とも知れさるが、宗意は後々定而誰と推量被致たる事も有べき也。右之咄は桔梗屋宗与、度々致されたると、子息素軒[ケン]被咄候也。
一曽谷宗カツと同宗勢とハ、兄弟にて宗カツは兄也。宗勢は弟也。
一桔梗屋宗与ハ曽谷宗カツノ婿、素軒は宗与子にて、宗カツノ孫也。宗与後妻は三宅宗知の娘也。
曽谷宗カツ実子なき故、素軒弟を養子に被致候。則宗カツ娘の産[ウミ]の子たる故、宗カツ之孫也。其後に宗カツ年被寄、実子一人出来申。是後に曽谷如卜[ボク]といふなり。

一宗味姉を後に利貞と云。桔梗屋宗利の内儀にて候。後に利貞と宗味と兄弟之間不和にて、義絶にて候。其子細は、養清より遺物に牧渓の布袋の絵に一くう(一休カ)の讃の懸物をゆづられ候。しかれども宗味方より利貞方へ久敷渡されず候。利貞も聞へざるしかたと思はれ候へとも、宗味江催促も申されず、そのとをりに致居られ候。其時分高台寺政所様御屋敷、只今 仙洞様御殿の辺に御座候て、いかなる縁にて候や、利貞も政所様へ御心易く折々あからるゝ也。然ルゆへ右之絵賛の物、宗味より渡されず候通、或時女中方へ物語被致候。其時分高台寺政所様之御守に浅野但馬守殿付き居られ候。其時は三万石ばかりの御身代にて候。御舎兄は紀伊国一国御取候て、御大名にて候。御舎兄御跡目無之。御果以後、其跡を但馬守殿御継被成☆(より)、今の安芸守殿の先祖にて候也。右之通三万石にて政所様之御守故、女中方利貞物語の通を但馬守殿へ咄され候。然る故、其時の京諸司代板倉伊賀守殿へ但馬守殿申さるゝハ、大文字屋養清相果候時分、跡目宗味へハ虚堂墨蹟をゆづり、娘桔梗屋利貞へは絵賛の物を遺物にゆづり(一字抹消)置也。然るを右之絵賛の物を宗味方にとめおき、利貞方へハ今に渡申さぬ故、右之様子政所様にて利貞なげき候。是は宗味急度絵賛の物を利貞へ渡す様にと、申付可被成哉、と但馬殿申さるゝ。 其後伊賀守殿へ宗味まいる節、伊賀殿、右之様子宗味に御物語被成、養清遺物ならば、絵賛之物を早々利貞方へ渡シ可然と被申、それゆへ早々絵賛の物を利貞方へ宗味渡シ申なり。然れ共宗味存ルハ、利貞しかた聞きこへさる事、内々一両年の内に利貞方へ相渡シ可申と存居る処に、それをもまたず、又此方へことハりもなく政所様にて右之通を申、伊賀殿の御耳へも入候段、面目をうしなひ、きこゑざるしかたとて、是より利貞と不通ニなる。則此物語、[後ニ]桔梗屋素軒、我に被致、右之絵賛の物を我にミせ被申候也。
一だいそ先祖の名を宗意と云。是養清家来なり。宗意妻を後に意松と云。宗意子法体の名を又宗意と云。其妻ハ宗松と云。此の宗松子惣領は、女子にて吉文字屋松順妻也。其次左兵衛[後宗閑ト云]、其次宇右衛門[後了意ト云]、其次五郎兵衛[後宗茂ト云]、其次六兵衛、其次女子、野村屋新兵衛妻也。其次女子、唐物屋利兵衛妻にて、以上七人宗松産[ウミ]之子なり。扨親子の宗意両人共に死去、意松と宗松と存生之時、意松ハ先ツ二千貫目の分限也。宗松子ハ意松ためにハ孫也。其内惣領之女子吉文字屋松順妻と左兵衛[後宗閑ト云]と両人ハ、殊之外意松の気に入り子分之様にて、常々金銀もとらせ、左兵衛へハ家を九軒迄とらせ被申候。其外宇右衛門[後了意ト云]、五郎兵衛[後宗茂ト云]ハ後の宗意・宗松家を求めつかハし、尤金銀をも相応にとらせしつけらるゝ。女子二人も野村屋新兵衛と唐物屋利兵衛とへ有つけらるゝ。か様に宗松子をしつけらるゝ時分、意松よりも孫故、銀五十貫目宛とらさるゝ。然る故、意松存生之時ハいつれも孫共意松を殊之外用ヒ申す也。扨後意松死去之時分、手代茂左衛門と申者に、譲状をかゝせ、名判自筆に致シおく。其譲状には、宇右衛門[後了意ト云]・五郎兵衛[後宗茂ト云]・六兵衛へ銀五貫目宛、かたみにつかハす。又譲状を書申す手代[タイ]茂左衛門へハ銀十貫目とらせ、其外二千貫目程の銀子を六歩ハ左兵衛[後宗閑と云]、四歩は吉文字屋松順妻につかハすとの譲状なり。然る故、意松死去之後、宇右衛門[後了意ト云]・五郎兵衛[後宗茂ト云]・六兵衛一所に成リ、宗松へ申するハ、松屋妻も左兵衛[後宗閑ト云]と我々共も、皆一腹の兄弟なるに、あまりかたうち成ル譲状、是ハ御了簡被成 公儀へ御申あれとなけくゆへ、宗松尤と思ひ、公儀になるべき所、大徳寺衆旦那ゆへ、扱ヒにて、意松譲ハ五貫目宛なれ共、七十貫目宛に致シ、互に無事可然との事にて、其通に[先ツ]相済処、左兵衛[後宗閑ト云]・松順より七十貫目にて相済シ候。請取の案紙を宇右衛門[後了意ト云]・五郎兵衛[後宗茂ト云]方へ出シ、かくのことく書物を致せと云。其文言ハ此度意松跡申分有之処、何れも扱ひにて銀子七十貫目宛御両人☆(より)被下、忝ク相済ム候旨之文言にて、当所[名]は松順妻と左兵衛[後宗閑ト云]也。其時第三人申するハ、此七十貫目之銀子、意松よりもらふと書べけれ共、姉と左兵衛[後宗閑ト云]☆(より)もらひ相済すとハ書ク間敷との事也。又田屋等意は、母宗松弟也。等意も此事用心無之旨、宗松へ申す故、何角と又扱ひやぶれ、終には 公儀江出る。周防守殿之時代也。其時の宗松申分は、大分の金銀ヲ姉娘と左兵衛[後宗閑ト云]と両人致取リ、弟共ハ少分ならでハ取リ不申、不便に候間、それゝゝ☆に割付ケとらせ度キとの願ヒ也。又松順妻・左兵衛[後宗閑ト云]方☆(より)は、意松の譲状を指上ル其時宗松申するハ、此譲状は意松相果ル剋、手代茂左衛門書たると申上ル。周防守殿御覧之処、孫共へハ五貫目宛の譲リにて、手代茂左衛門へは十貫目之譲リ、其外之金銀六歩ハ左兵衛[後宗閑ト云]、四歩は松順妻と有之故、周防守殿御申あるハ、意松身代はいかほど、と御尋ゆへ、凡ソ二千貫目之身代、と申上ル時、孫共へさへ五貫目宛の譲なるに、手代茂左衛門へ十貫目の譲リ、扨々高き筆代と御申、其上之仰に、宗松と左兵衛[後宗閑と云]トは親子の事成るに、親子公事に出る事、畜生の仕形、人間の仕形に致せよ、幸ヒ母ある間、母に了簡をさせ、其上旦那寺もあるべければ、其出家と町と親類と知音と寄合相談之上にて、能キ様にさばけ、と仰付らるれば、又玄悦とて松順弟有之。御前へ罷出、意松譲状を手代茂左衛門にかゝせ、名判は意松直筆にて御座候間、譲状のごとくに致度キと申上ル。周防守殿、其方は何者ぞと御尋ゆへ、松順弟と申上れば、おのれいらざる申分、曲[クセ]事と仰られ、あかりやへ参り、松順妻・左兵衛[後宗閑ト云]方、何角と不首尾にて帰る。扨大徳寺之僧并に町中、又親類にハ田屋等意、知音には竹島半兵衛、右寄合相談之所、宗松・等意など申するハ、左兵衛[後宗閑ト云]に五百貫目、宇右衛門[後了意ト云]四百五十貫目、五郎兵衛[後宗茂ト云]に四百貫目、六兵衛に三百五十貫目、同娘三人共に五十貫目ツヽ、此通に致度キと町中へも談合す。町中申するハ、此段善悪は申されぬ間、菟角宗松いづれものさばき次第と申す故、又右之通を書立テ、か様に譲度キ旨 公儀へ宗松☆(より)申上れば、其願ひの上に此書立テ見申すに及バざる間、よきやうニ母いづれも了簡ヲ致シさばけと仰られ帰る。然る故右之ごとくに致すべき哉、いかゞと宗松方にも何れも寄会、分別きハまらず、其上意松土蔵に松順妻・左兵衛[後宗閑ト云]封をつけおかるゝ故、此封を切り、銀配分致すも如何と思案あれ共、又談合にて菟角母いづれも相談之上にてよき様にさばけとの仰なれば、苦シかるまじきとて、封を切り、右之通にさはき候。現銀は二三百貫目もあるへきとの事也。残りは手形也。しかる時松順妻・左兵衛[後宗閑ト云]より又 公儀へ申上るハ、我共土蔵へ封を付け置処、此方へ案内もなく封を切り、土蔵をひらく段不届之儀と申上れども、御取上なきゆへ不首尾也。扨母宗松了簡之通に配分致シ、左兵衛[後宗閑ト云]江之五百貫目は宜シからざる手形をつかハし、弟共ハ能き手形を取れども、最早申分にもならず、其通に相済ム旨也。
(頭書)
[☆☆]
一両替善六に娘両人、男子一人あり。姉娘名をおはると云。何方へ哉らん、縁につき帰られ、母と一所に隠居方に居らるゝ。又妹娘は大文字屋宗貞子ノ長兵衛[後宗温ト云]妻也。男子ハ善六死去之後、名を又善六と申、親之跡を継居る。扨姉娘おはるを、母何方へそ又縁につけ度キとて、方々聞立テらるゝ内に、清水半右衛門と申す所☆(より)妻に致度との事なれとも、婿大文字屋長兵衛[後宗温ト云]、おはる・母へ相談にて、後藤三郎四郎と申す所へ縁につけらるゝ故、半右衛門申するハ、我縁組之相談致、大かた相調フ処、大文字屋長兵衛[後宗温ト云]我かまゝ成ルひいきを以て、俄に他所へ縁に付ル段、面目を失ひ候。長兵衛[後宗温ト云]あまり成ル仕形と思ひ、其様子を公儀江申上ル。牧野佐渡守殿時代にて、先ツ御取上ケも無之、其後あまり年も経ざる内、おはる死去也。此おはるハ親善六☆(より)銀子をおほくもらハれ、それゆへおはる死去之跡に銀五百貫目余あり。尤母ハおはる☆(より)以前に死去、弟善六と長兵衛[後宗温ト云]妻と残り居る故、長兵衛[後宗温ト云]申するハ、我か子之次男七左衛門はおはる甥[ヲヒ]故、養子に致たる間、おはる跡の金銀を皆々此の方へ取ルべきと云。又善六申分ハ、何共其段我は存せず。か様に長兵衛[後宗温ト云]我かまゝを申さるゝ段、不届成事とて、善六☆(より) 公儀へ其段申上、私儀、おはるが金銀を望ミ申、言上致すにてハ無之。長兵衛[後宗温ト云]あまり我かまゝを申ス故、御聞届被遊可被下との事也。又後藤三郎四郎ハおはる死去、子もなき故、おはる跡式之事ハ何のおもひもなく、金銀諸道具を返す。扨公事に成リ、御公儀☆(より)善六・長兵衛[後宗温ト云]・三郎四郎・清水半右衛門を御よび出シ、半右衛門へ仰らるゝハ、汝今迄の申分をきくに、はるは大分金銀あるにより、欲[ヨク]にて妻に致度思ひ、色々とねだれ事を申す段、不届者とて篭舎かあがりやかへ、つかハさるゝ。扨長兵衛[後宗温ト云]を御呼ヒ出、汝申分是も私欲にてはる金銀を我一人して取ルべきとの事不届也。去ながら次男七左衛門ハはるために甥[ヲヒ]故、養子分との事、左もあらば、はる跡之金銀を善六と半分宛取ルへし。しかれ共汝我がまゝの仕形曲事とて、是もあがりやへつかハさる。後藤三郎四郎は別義なき故、何之被仰渡もなく、ヶ様に公事相済。金銀は善六と長兵衛[後宗温ト云]と半分宛わけて取リ、半右衛門・長兵衛[後宗温ト云]ハあかりやへ参り半年程過ぎ、御赦免にて此公事三月☆(より)霜月迄かゝり相済候旨也。
一親善六始而両替屋を致シ、方々御大名方江立テ入、分限に成る。しかれ共後迄木綿物を着て宗味方へ心やすく度々参りてハ、あがり口のくつぬぎに腰をかけ、畳の上へハあがらずに、宗味と毎度咄する也。宗味は方々御大名方御ひいき多き故、宗味子を一人両替屋に致せ、いづれも金銀いらざる時は預ヶおかんとの仰なれども、其時節は何とやらん両替屋ハいやしき様に世間に申する故、宗味子をは両替屋に致さず候。然る故善六両替屋を致シ、万事宗味を頼ミ、主人の様にあしらい心安ク宗味方へ来る。扨善六田舎へ参る時にハ書置をふところへ入レ、いつとてもくだる前に宗味方へ参り、直に預ヶ置也。宗味申するハ、善六は人の推量之外かね持と常々子共へも咄たるハ、右之書置をみらるゝ故也。
一大文字屋宗貞子長兵衛法体之名をは宗温と云。宗温死去之後、子七郎兵衛時代に手前殊之外不如意なる故、柳川了長をたのミ、先祖より所持之虚堂之墨蹟を質物にいれ、銀子借用申度と申さるゝ故、大文字屋宗積へ了長咄さるゝは、七郎兵衛右之通頼まるゝが、家の道具たる間、其方へ質物に御取あるへき哉と相談ゆへ、宗積申するは、宗温は中々意[イ]地を立ル人にて、此方ハ先腹之流、宗温方ハ後腹とて物毎あらそハるゝ心なるが、子息七郎兵衛はやハらかなる生れつきにて、左様の意地もあるましき様に思ハるれ共、母儀松雲はいかゞ思ハるゝべき哉。惣而先祖☆(より)持伝ゆる、人の存[ゾンジ]たる道具は、其一家之内へ質物にも入レ、又は売渡すれば、先祖之名出す恥辱にならざるが、他家へつかハしては、先祖之名も出、先祖は勿論之事、只今一家之者の恥辱にもなる故、成へき事ならば七郎兵衛其まゝ所持致さるゝが宜き筈なれ共、是非にならぬ様子ならはいづれ成とも大文字屋の内へ質物におかるゝか、先祖又は一家へ対シ宜敷キ也。一家之内取リ手なきならば、我も一家之内たる間、質物に我方へ成とも取ルべし。然る時は七郎兵衛方にも此方にも互ニ宜敷間、此道を七郎兵衛并に松雲へ御申あるべし。しかれ共宗温のごとくに今意地を立テられ、たとへ他家へハ預ケル共、此方へはいやとの事なれば是非なし。先ツ此通ヲ松雲・七郎兵衛へ御申あれと申すれば、了長これは尤至極也。其通を申、追付返事致すべきとの事にて、両人へ申され、其返事を又了長申来らるゝ。松雲・七郎兵衛共に御心入之段、至極致するまゝ、他家へ預ヶ置ク☆(より)ハ其方へ預ヶ可申との返事也。宗積申するハ、然る上ハ利足なとも心安ク致、又切リなど相延ル共、其かまひなく何時迄も相待、菟角其方勝手次第、墨蹟返弁致すべきと云、了長其通を松雲・七郎兵衛へ申さるれは、殊之外満足にて元禄八年亥三月二十九日に墨蹟を取り、先ツ銀十八貫目つかハす。其後利銀とても渡されす、切リもひたと相延ヒ、元禄十二年卯ノ極月に、了長申さるゝハ、松雲・七郎兵衛勝手弥不如意にて、質物の切リも過、利銀もに今(ママ)渡されず何角之延引埒明[アカ]さるが、松雲も七郎兵衛も申さるゝハ、迚モ墨蹟持こたへがたきまゝ、他家へ売渡もいかゞなる間、宗積方へ望ミならば進ずべき由、了長を以て申越サるゝ。宗積返答に、御心入別而浅からず、他家へ参りてハ先祖子孫の恥辱たる間、一家之内ハ皆子孫故、いつかたに有てもおなし事、我も内證只今は不勝手なれ共、是は先祖子孫の為にて各別の事なる間、いかにも我可申受とて、了長江相談之上にて金子千両に求ムべき旨申つかハす。然る処に、松雲・七郎兵衛又申越さるゝハ、先以大慶之事、迚之儀に松雲・七郎兵衛両人共に宗積に逢ヒ候て、以後は和睦[ボク]に成リ、互に申通シ度キ由、此上の願ひと申越さるゝ故、宗積申するハ、其方☆(より)以後和睦[ボク]との上に、此方とても意地を立ル事なきまゝ、いかにも可申通とて、墨蹟ヲ金千両に求むる。追付七郎兵衛、了長同達[道]にて宗積宅へ礼に参らるゝ。其後又宗積・了長同道申、七郎兵衛方へ行キ、母儀松雲にも逢ヒ、互に一家和睦に成る也。其故大文字屋三右衛門も七郎兵衛とも和睦にて互に通路を致す。又七郎兵衛おば貞松、其子息田中才兵衛親子は、尤七郎兵衛江ちかき親類故、万事相談にて此墨蹟之事も内證にて松雲・七郎兵衛も相談致され、具(ママ)上にて、ケ様に首尾致す故、貞松子息才兵衛も初而宗積方へよろこびに来らるゝ。又宗積も貞松方へ行キ、貞松にも才兵衛にも逢フ也。此以後年頭には才兵衛も宗積方へ被来、宗積も貞松方へ毎年行ク也。扨此虚堂墨蹟ハ先祖宗観子栄甫時代に求メ、それより養清・宗味と惣領へ譲る処、宗味死去之後、惣領権兵衛[宗種事]へ渡るべき物を宗味後妻我か産[ウミ]の子ノ惣領長兵衛[宗貞事]へ渡シたく思ひ、宗味死後権兵衛は惣領たりといへ共、継子なる故、長兵衛へ渡す也。しかれ共蔗子へ渡り末々よろしからざる間、今度も宗祐ハ宗積兄にて惣領の家たる間、虚堂墨蹟所持然るべき事とて、宗祐・宗積相談にて宗祐并ニ子三右衛門金子致し、虚堂墨蹟を持伝ル也。其時節は宗祐中気を煩ひ、数年病中故、万事三右衛門へ渡シ、宗祐ハ隠居にて物毎かまひ申さす、病気養生致する也。扨先年随益方☆(より)一休朱太刀墨蹟を宗祐もらひ置たるか、是も先祖より所持也物なれば、宗積方へハ今度朱太刀墨蹟をつかハす。それ故虚堂墨蹟ハ宗祐并に子三右衛門所持也。朱太刀墨蹟と馮海粟と両幅ハ宗積所持致す也。
一利休所持早船茶碗ハ那波屋昌斎数年所持致す所 宗積
是を所望し、家蔵とするもの也。
一大文字屋勘兵衛事、行粧悪敷キ故、兄宗祐・宗積不通致す也。其子細ハ宗祐先祖☆(より)代々筑前大守江御立入致シ、金銀御肝煎申候。又阿州大守江も代々御出入、御呉服を致シ、其上外ノ御大名方へも金銀御取替申すに付、何角と用事しげき故、天和二年戌ノ春☆(より)筑前大守へ宗祐名代に勘兵衛を出シ、金銀御肝煎を致す也。尤宗祐も御出入其侭致し候。然る所に勘兵衛身持悪敷キ故、宗祐・宗積数度異見を致す所、度々畏入候とて同心之体にミへ、しはらくハよきやうなれ共、終にハ身持宜からず筑前借銀之内大分引屓を致シ、又宗祐金銀も大分借リ様をかくる上に、筑前の引屓を宗祐・宗積つくのふ故、両人夥敷損を致す也。右之通悪敷キ仕方なるによりて、元禄元年辰ノ春、宗祐・宗積不通になる也。又勘兵衛妻は、金屋寿斎娘にて、名をせきと云。是も勘兵衛身持悪敷ク、ヶ様の次第故、勘兵衛を恨ミ煩ひ出シ、終に元禄元年辰ノ霜月に相果る[法名閑窓貞恕ト号]。勘兵衛も翌年夏☆(より)煩ひ出シ、元禄二年巳九月二十五日に年三十八歳にて相果る[法名雲峰宗恕ト号]。娘二人あり。勘兵衛妻の兄、金屋源兵衛ハ娘のためにはおぢなる故、勘兵衛家財[サイ]をつけ、娘両人を源兵衛方へ引取申さるゝ。妹娘ハ元禄四年未ノ八月に十五歳にて相果る[虚樹智光ト号ス]。姉娘おかつと源兵衛子息源太郎とを夫婦に致シおかるゝ也。其後数年経テ、宗祐ハ相果被申、宗積残り居る所、おかつ宗積方へ度々願ひ申さるゝハ、もはや親類とても無之、便りもなき身なるまゝ、何とぞ前々の通に通[ツウ]路致度とねがハるゝ故、宗積存ずるも、尤勘兵衛不届に候へ共、其時分ハおかつも幼少、殊に娘の事にて何角之様子もしらず、其上今にてハ親類も無之、便りなきとの事ハいかにも聞届る也。宗祐もおかつ事ハ不便に存居られたるまゝ、いかにも前々の通出合可申とて、宝永四年亥ノ四月に宗積方へおかつ被来、それより前々の通互に入魂也。宗祐子三右衛門も別義なき故、これもおかつと通路[ツウロ]致シ、前々の通に成申候也。
一宗祐惣領の子ハ権兵衛と云、二男を三右衛門と云、両人斗也。権兵衛妻ハ家原自仙姪[メイ]にて、自仙娘にして権兵衛妻になる也。然る所、元禄二年巳九月朔日に、権兵衛二十五歳にて相果る[法名陽春宗立ト号]。妻も同年霜月に相果る[清誉栄心ト号]。子も無之、跡なき也。然る故二男三右衛門宗祐跡を相続する者也。
一宗積に娘二人あり。姉娘をおさくといふ。四歳にて相果る[祖蕣童女ト号]。妹娘をおちくと云、男子なき故堂屋藤兵衛[法名宗与ト云]子、年十九歳に成ルを元禄七年戌ノ九月に養子に致シ、名をは甚兵衛と付ケ、おちくと夫婦に致シ、宗積跡を相続する者也。
一上立売宗清子平兵衛[宗徹事]、其子五兵衛と申て代々筑前大守江御出入候。呉服勤居申す所に、五兵衛(ママ) 二十九歳にて相果る[法名宗鑑ト号]。子なき故に同名宗祐筑前へ御願申す様ハ、五兵衛跡目無之間、御国元☆(より)跡目を御立テ下るゝ様にと御願申候へば、一門之内いつれにても可然者を五兵衛跡目に立テ可申旨被仰候得共、一門之内にも似合敷者無御座候間、とかく御国元☆(より)いつれにても跡目御立テ下さるゝ様にと願ひ申す故、野村勘兵衛と申て千三百石にて侍大持[ママ]被致候仁之二男十七歳にならるゝを五兵衛跡目に京都へ御のぼせなされ、前々の通御呉服も一人に被仰付、御用相勤メ、上立売の家無相違相続致す者也。
一大文字屋☆順、同子十左衛門、此元祖ハ栄甫ノ子にて、養清弟也。其子孫☆順・十左衛門にて相続致す也。
一宗種妻心月守皎ハ、石川宗林の愛子ゆへ、大分金銀をあたへられ候。守皎之両人の子ハ早世故、守皎相果る時分、夫[ヲツト]宗種へ不残譲られ候。宗味金銀は継母よこしまにて、宗味書置にちがへて、我か子宗貞へ大分ゆつり、宗種へハ少分あたへられ候。其故申分出来、先腹と後腹と不通也。宗祐・宗積両人之子孫ハ心月守皎の恩を能々思ふへき者也。
一宗種おちを心誉喜栄と云。夫[ヲツト]を仁兵衛[宗玄事]と云。両人共に宗味の時より奉公を致すなり。宗種に子のなきをかなしミ、妙種をよひむかへ、宗祐・宗積・勘兵衛三人の子をもたれ候也。又日野肩衝を宗種へはやくゆづられよ、と度々宗味へ申入る。或[アル]時ハ宗味を我が宅へよひ、馳走にあいごの若のせつきやうをかたらせ、継母のよこしまにて継子の哀なる事をしらせ、宗味になミだをこぼさせて、是ハ宗味後妻先腹の子をにくミ、我か子を愛し居らるゝ故、宗種へ参る道具も継母の證言にて相違も可有哉と心もとなく思ひ、継母・継子の間は悪敷物としらせんための謀也。又宗種阿波之御呉服様子有之、あがり御立入無用とある処に、仁兵衛[宗玄事]阿波へくだり仕置衆に逢ヒ、段々昔の由緒を申立テ、即時に御機嫌なをり、それ☆(より)前々のごとく御立入致す也。右之段々、仁兵衛[宗玄事]は宗種家へ対して忠の者也。又仁兵衛妻喜栄事ハ宗味家へがんどう入たる時、人質にとらるゝ。宗種ハ二歳之時にて我か乳をふくませいだきて、うつふぎに成リ、夜着をかぶり端之間に居る。公儀☆(より)大勢来られ、宗味表のかうしを打やふる時、ぬす人刀を抜、喜栄せなかをひたと切付ケ、土蔵へにげこむ也。然れ共夜着をかふり居申、其上端[ハシ]之間天井殊之外ひくき故、長キ刀ふりあけても天井へつかへ、下へのあたりよハき故、せなかに疵多く付キ候へとも其身も無羔、下にいだき居申宗種も猶以別義なき也。是喜栄宗種への忠也。加様に宗玄夫婦は宗種へ対し奉公をよく致たる者なれば、宗種子孫之者、此恵を思ふべし。心月守皎・祐誉宗玄・心誉喜栄、右三人ハ宗祐・宗積子孫に至て、此恩を思ふべし。恩をしらざる者は、其家必衰[ヲトロ]ふ者也。慎のため右之段書置者也。宗玄ハ伏見屋久佐の兄也。宗味先腹の子を、後妻にくミ、宗味死去之後譲状に背き、宗種・宗清へハ金銀少斗ゆづる。妙栄・量阿弥・千山は女子と出家故、其通にて有付居らるれども、宗種・宗清よハ難義も致さる。されども、宗種ハ阿波江立入、呉服を致。宗清ハ筑前へ立入、呉服を致す。それ故代々無羔家をもちつたふる。後腹の惣領宗貞へハ継母ひいき致、宗味跡の大分之金銀、其外名物之道具を不残譲るといへども、其金銀皆々損失する也。然る故、ひのかたつきを五百貫目に両替然六へ売、又善六妹を我が嫁にして、我が子の宗温と夫婦にす。此妹に善六☆(より)金銀を四五百貫目ゆづる。又善六あね娘、子なく死去故、五百貫目程あるを、半分ハ善六へ取、半分ハ宗温へ取。然[シカ]る故、宗貞・宗温代に宗味譲りの金銀大分を、皆々損失すといへども、又善六☆(より)茶入の銀、宗温之内儀の銀、同内儀の姉の銀半分と、以上千貫目の余、現銀にて取らるゝ。されども宗温夫婦のおごり故、金銀又皆に致され、宗温子七郎兵衛代にハ散々の体になりて、平右衛門も子息の代に身代散々になる。随易は子なき故、改式は皆ニわけて、家来へつかわるゝ也。宗貞・宗温は大分の金銀をとられても、末にいたつて金銀諸道具跡かたなく失る。是をミる時は、とかくよこしまなる事ハ一だんよきとミへても、跡続かざるもの也。又金銀いかほど多きとても、其人おごれば、即時に滅する。おごらぬとても不仕合なれば、失るに程なきものなり。宗種・宗清は継母のよこしまにて金銀道具ゆつらずといへども、阿波・筑前の御影にて子孫代々続く。これをミる時ハ、金銀にはよらず、只家に家督の有ルか久敷家相続する者也。
一宗種は酒をきらひ、ふつと給られず。宗種を始、先腹五人皆下戸也。御影堂量阿弥一人酒を好るれ共、兄宗種を思れて、しのびて少宛給らるゝ。四十九歳にて遷化也。後腹ハ皆々上戸にて有之也。
一宗種は若き時たばこを殊之外好るゝ。然れ共宗種存らるゝハ、たはこハいらさるもの也。もはや続申間敷と思われ、それ☆(より)ふつとたばこをとまり、一生給申されぬ也。外☆(より)申するハ、たばこハ止がたきものなるに、始而止らるゝ日より終にたばこの沙汰なく、一生止られたる事感シ居る也。
宗種子三人有。惣領宗祐へハ、親宗種☆(より)惣領分程金銀を譲り、其上阿波の呉服を譲る。宗積勘兵衛へも、相応に宗種改式を譲る。然る所勘兵衛ハおごりつよく即時に跡絶、其身も死去す。其故大文字屋の末とてハ宗種子宗祐・宗積、又宗清子孫五兵衛是三人、大文字屋の家を相続する也。残りハあるかなきかの体、又はすきと跡絶るもある也。
一宗積我か子に言やうハ、惣而金銀ハいかほと多きとても其身覚悟悪ければ、即時滅する。呉服にても知行にても、家督のあるものは、それにて家相続するもの也。然れ共家督なく、金銀斗持たる者は、一入身の慎肝要也。家督なけれは、少身持悪敷とも、又ハ不仕合にても、即時に家滅する。然る故家に家督なきものハ、身の行ひ肝要也、殊に一代二代は果報もつきず、三代☆(より)後ハ先祖の果報もつくる。たとへハ、人二十、三十迄ハ少不養生にても若く身つよき故、死ざるが、四十、五十になれば殊之外身もよハる故、少の不養生にても命絶る。又七、八十になれば、随分身も保養せずしては少の病にても死するハ、人のならひ也。如此人の福力も一代二代はさかんなる故、少身持悪きとても家断絶ハしかぬる。四代五代になれば、少身持悪敷てもたちまち家ほろぶ。まして七代八代とハ人の家続かさるもの也。大文字屋の家ハ七、八代続たる故、人にしてハ七八十の寿命也。然る故、我が子孫少にてもおごる心あらば、たちまち悪シかるべし。一代二代の果報のまねすべからさるもの也。宗積親宗種にておごらぬ人にてある上に、先祖も下戸とて酒のます、たはこものまず、随分かたき行粧也。我が子共にも町人は冥加を思ふて時々ハ木綿を着るべしとて、子宗祐・宗積幼少之時も、時々木綿を着せらるゝ。又先祖☆(より)の掟にて、足打の膳にて不断の食たべす、平折敷にて給る。椀も蒔絵の椀にてたべず、無紋[モン]の黒ぬりの椀、是先祖☆(より)の掟也。我が子孫、右之掟を守るべし。大名の呉服なと致す者ハ、旅をも致、常々ほねを打、又ハ侍衆へのあいさつにも成る故、酒なと少給てもくるしからざれども、宗積子孫は家に家督なき故、先祖の掟を守り、時々木綿をも着るべし。宗積は不断木綿のはだ着を着て、袷なとも木綿也。尤酒たばこのまず、親の教へを守る。又宗積娘おちく養子甚兵衛も、宗積ごとくに酒たばこのまず、時々木綿を着る。又甚兵衛おちく子も、実子にても養子にてもあらば、如此急度守るべし。左なくハ一日も家相続すへからず。子細は右申通、七八代も続たる家故、果報もなく、たゞ行粧よき斗がたのミ成る間、必慎へし々々(☆)。たとへ実子養子ありといふとも、酒たばこをバのまば、実子ならば出家成ともさせ、養子ならは早々もとすべし。必我か家つかすべからず。代々の掟にそむき、家をつぶすは尤其子の科[トカ]、又ハ親の教へざる科也。先祖より伝ハりたる金銀諸道具を沽却するハ、先祖へ対し大不孝也。他人みてハ酒をのミたるとても、世間に皆あるならひ、少おごりたるとても、世間に有ならひなるに、是ハあまり無慈悲に息づまるもの也。本は損失をして、是にてはつゞく間敷と思ふならば、人を大分へらし、家をもちゞむるか売ルかして逼塞するならば、其家又つゞくへし。たとへ道具など売ルとても、右之通逼塞して、其上にて少宛売ルべし。しかれは百貫二百貫之道具を売てもたよりになるもの也。惣而手前不如意に成たる時、逼塞もせず、人目悪敷キとて、内證にて道具を売リ、家をやはりはるものは、何のやくにたゝぬ事也。逼塞したる上にてハ、少の道具を売てもたよりになる也。先ツ家を売リ、小家に替へ、人も少斗つかひ、其時に我たくわへたる道具を少宛売べし。しからば道具一色二色宛売ても殊之外たよりになる也。人目を恥ず、先づ逼塞致、其上にて道具などはなすべし。左なくてハ家相続は成がたし。又自然我が子孫富貴に成たるとても、家を大きにすべからず。人を大勢つかふべからず。おごるへからす。やはり家法を守り、金銀たまらは、家来をもいよゝゝすくひ、又ハよき道具を買へしとて、家のため子孫のためになる事に、金銀つかひ、我が身の栄耀おこりにハ、いかほど富キなりとても金銀つかふべからす。先祖之金銀を我が栄耀につかふものは冥加につき、神仏の罰たちまちあたる。其心得肝要也。
一宗積我が子にいふやう、仏神を常にうやまふべし。とかく我が身の行粧よき上に仏神をうやまへば、仏神の心にかなふゆへ利生ある也。我が身持悪敷して仏神をたのむものハ利生あるべからす。慈悲をおもにして物ごと我身をつゝしみ、其上にて仏神をうやまふべき也。
一藤村庸軒ハ若き時は十二屋源兵衛と云也。幼少の時☆(より)学文被致、其故後々迄儒者にて学文者なり。またわかき時より茶湯を好、町内藪内了知に織部風をならひ、其後遠州へ度々参られ、遠州死去の後、宗和へもゆかれ、さて三十過て千宗旦の弟子になられ、ことの外宗旦とあいたよく、それより藪内・遠州流をうち捨て、利休の古風をまなバれ、宗旦に台子ものこらす相伝いたされ、宗旦一生無二の師弟のあいだなり。此庸軒は不断かこひに釜をしかけ置キ、茶湯之友来らるゝ時は、かこひにて常に薄茶を振舞るゝ。一生之内かくのことく致さるゝ。わかき時は、学文亡羊の弟子にて、ことの外亡羊としたしく、道乙と一所に学文をいたさるゝ。亡羊は遠州とこゝろやすきゆへ、亡羊とつれだちて庸軒も度々遠州かたへ参らるゝ。亡羊は香聞ゆへ、香の事をも亡羊に庸軒伝授いたさるゝ。かやうにわかき時☆(より)茶湯を好るゝゆへ、宗旦の弟子になられても、外の弟子衆とハちがひ、下地に目もきゝ、茶湯之事伝授し居らるれば、宗旦弟子の内にても宗旦の茶湯をよく合点いたされ、宗旦もことの外あいだよく、茶湯相伝いたさるゝ。風炉の灰も藪内了知と同町にて、五年のあいだならわれ、加様に下地に茶湯の功をつまるゝゆへ、宗旦の風炉の灰もよく合点いたさるゝ。宗旦以後には庸軒古風茶湯之第一也。宗祐・宗積幼少之時は、庸軒のとなりに居申、又代々たがひにこゝろやすき知音[イン]ゆへ、何角の由緒にてことの外したしき茶湯之弟子也。尤宗祐・宗積両人ともに、古風之台子、利休之台子、宗旦より庸軒へ伝授致さるゝ通、又庸軒より伝授致さるゝ。庸軒ハ八十七歳にて死去也。

(家系図)

一宗味初之妻、芳雲妙春ハ、久我殿御家来之公家衆之娘子也。
一宗味後妻妙恵ハ石川備前守入道宗林妹也。
一宗種[宗味惣領子]初之妻心月守皎は、石川備前守入道宗林之娘也。
一妙栄[宗味娘]ハ鎰屋常栄妻にて、桑山宗庵・鎰屋了興・鎰屋宗立・鎰屋勘右衛門、右四人之母也。但シ鎰屋常栄方へ行たる以前に紀州にて男子一人産ム。
中左京様御用人にて、知行三百石也。後に妙栄ト通路有。
一宗清[宗味子]妻は石川宗林之娘にて、守皎之妹也。是平兵衛母也。平兵衛妻ハ三宅宗知娘ニ而おすてト[法名正雲ト号]云。是五兵衛[宗温事]母也。但シ五兵衛に子なく、筑前☆(より)養子也。
一宗祐妻は金屋友専娘ニ而、およつ[法名琳桂ト号]と云、権兵衛・三右衛門母也。
一宗積妻は三宅宗知惣領子ノ次郎右衛門[法名宗勢ト号]娘ニ而、おくま[法名栄春ト号]と云。祖蕣・おちく母也。
一勘兵衛[法名宗恕ト号]妻は金屋寿斎娘ニ而、おせき[法名貞恕ト号]と云、お勝・おぎん[法名智光]・自性ノ母也。


右先祖記二巻は前廉☆(より)書置キ、又ハ云ヒ伝ヘヲ以宗積書記シ置。是一家ノ末跡、後ニ先祖ノ事モ曽テ知ル間敷ク、又ハ面々之身ノ覚悟ニも為可成と記置物也。


宝永六年丑九月中旬
宗積

○比喜多松斎也